インターネットみそボンマンの話
2020年11月15日
前回のブログの更新から約1年と11ヶ月ほど経ってます。
前回のブログを見返すと様々なことが変わったなと言う実感があります。
Twitterはもっと呟かなくなったし、引っ越ししたし、構えた事務所も引き払いました。心の拠り所になっていたバディファイトもサービスが終了してしまい、カードゲームのプレイ自体やめず今はデジカで遊んでます。楽しかった思い出はイラストレーターの友達とハワイに行ったことですかね。
と言っても皆さんご存知の通りコロナウィルスの影響で外出の機会もめっきり減り、先行きの見えない感覚にたくさんの人が各々不安を抱えて生きているんだなと言うのをひしひしと感じます。
Twitterの更新頻度は前回のブログを書いた時あたりからグッと減ったとは思うんですけど、それでも月200件ほど投稿していました。今はアナリティクスでツイート数などを参照できるので便利ですね。あーやっぱ多い時で500件近い呟きをしておりました。先月あたり、SNS上で嫌な出来事がありもっとサバサバした使い方をしないとこの先一生こう言うSNSみたいなものに縛られるなと思いもっとキツく自分を律することにしました。
携帯からアプリを消して、特段お知らせがない限りは絶対に呟かないと言う方針です。
結果今は月に10~20件ほどのツイートにおさまっています。
そして今後の発言の指標(このくらいであれば呟いて良い)を決めようと思い過去2ヶ月くらいのどうでもよかったなこれ。と思う発言を手作業で消してみました。
なんか全部どうでも良いことなんですよね。当たり前なんですけど。
でもTwitterってフォロワーの数が表示されるし、ツイートすればRTやいいねの数も可視化される。
そうするとなんか自分が「何か含蓄のある言葉を投げかけてる」「タレントのように発言が評価されてる」ようなここまではいかないにしてもある種の錯覚を覚えてるんだろうなという感覚がありました。でもその全てがどうでも良いただの他人の日常なんですよね。それ以上でもそれ以下でもない。日常。
SNSとの付き合い方はこれからもずっと課題になっていくような気がします。あまり肩入れしていると本当にそこで言われていることが民衆の総意に思えてきてしまうんですよね。そんな小さな国家みたいな場所で自分の尊厳が傷つけられたらやはり痛みも耐えがたいものになります。逃げる場がないと思い込んでしまう。
SNSにいると何となく「自分と同じか近い年齢の人」とのやりとりを想像してしまいますが、一歩外に出れば同い年の人を探すのなんて大変で、それくらい人間っていうのはたくさんいて、それくらいたくさんの考え方があるんだよなと当たり前のことに今更気づきました。そもそもそれくらい考え方や価値観の乖離がある人間が同じ話題で意見をすり合わせるなんてことは土台無理な話で無意味なんですよね。
「現在のトレンドの炎上に関しての議論を始めましょう」
みたいな状況になるのはもはやtwitterでは日常茶飯事だと思いますが、普通の会社の会議ならともかく「高校生」「主婦」「サラリーマン」「デザイナー」「ヤンキー」「スポーツ選手」「おばあちゃん」「ニート」みたいなラインナップで話し合ったって纏まるわけないんですよね。それをみんな纏めようとして毎日インターネットで喧嘩してる。こんな馬鹿な話があるかよと思うけど、毎日それを馬鹿みたいに真剣に見て脳内でモヤモヤしたり怒ったりしてました。自分も。
自分の考えを持つのは大事だけどそれを故意に人にぶつけても意味ないしなんかすごい悲しいことだなと思いました。大の大人がこんなことやってんだからみっともなくて情けないです。
みっともないといえば、こう言う仕事をしていると顔も知らない他人に罵倒されることがあります。
それを有名税だとかなんだとかって言う人もいますが僕的にはそんなん「みそボン」じゃんと思ってます。みそボンというのはボンバーマンというフィールド上で爆弾を設置しあって最後の一人になったら優勝というゲーム中に登場するルールのことで、一度退場してしまったプレイヤーが場外から爆弾をフィールドに投げ入れてお邪魔することができるというものです。
もちろんフィールド上のプレイヤーはみそボンに攻撃することは一切叶いません。みそボン状態になったボンバーマンは誰からも爆撃されることなく安全圏から爆弾を投げることができる。設定によってはそこで爆撃したプレイヤーと入れ替わりで復活ができます。リスクなし。高リターン。
これ本当にバグだと思うんですが、なんとインターネットはいくらでもみそボンができます。副垢を作り有名人を叩いてもよし、匿名掲示板でスレを立てて叩くもよし、持論の主語を大きくして「みんなの意見だやり方を変えろ」と訴えるもよし、爆弾どころの騒ぎではないレベルでフィールド内に関与することができるのです。
対して渦中の人間は声を上げることは許されません。まったく持って損しかないからです。「こんなこと言われてる傷ついたみんな助けて」などと言おうものなら「みっともない」だの「かわいそうアピール」だの「ダサい」だの散々言われます。
だから最後の一人になって優勝するまでみそボンからの脅威を退けなくてはなりません。
しかし、このみそボンなんの略なんだと思い調べてみると「みそっかすボンバー」の略とのこと。みそっかすってあんま聞かないよな…ヘボットのOPのバンド?と思い語源を調べてみました。
「みそっかす、ミソッカスとは、味噌を漉(こ)した時に生じる滓(かす)のことで価値がないものの喩えとして使われたり、物の数に入らない者、仲間に入れてもらえない子供などを指して使われる言葉である。」
僕はこれをこの問題に対するパンチラインだと感じました。
価値がないもの。ものの数に入らないもの、仲間に入れてもらえないもの。そういうのがみそっかすだということです。
フィールドに立つものにとって価値のないもの。相手にするに値しないものなのだから無視しても結構なのです。散々みそボンの話をする前に「みんなの意見は違うんだから」という話をしましたが、その上で他人を攻撃している人なんてみんなみそっかすボンバーなんだと思った方がいいなと気づきました。
これほど痛快に的を得たネーミングはないかと思います。
このコロナ禍において行動範囲が狭まることで誹謗中傷や有名人の自殺の話題が増えました。なんかすごい悲しいなと思ってこのことについて書きました。
ただ、インターネットみそボンマンたちにやめろとは言いません。人の気持ちや行動を変えることは基本的に不可能だからです。みそボンすることが彼らの正義であれば意見は対立します。正義と正義がぶつかるから戦争になるんです。だから無意味。変えられない。アニメのおジャ魔女どれみにおいて「人の気持ちを変える魔法」がタブーだったのはそれが人の本質だからでしょう。
でも傷ついてる側の人間が「あーこいつみそボンしてるよ〜仲間に入れてもらえなくて悔しいんだな」くらいに思えばどーでも良くなってくるはずです。
無視すりゃどうとでもなるし、悲しんでる暇あったら自分のために時間を使ってあげると良いと思います。ゲームしてる方がいいですよ。
考え方一つでものの捉え方は変わりますがなかなか難しいです。
みそボンの意見はやっぱりかなりこたえます。でも自分が変わろうとしないといつまでも爆風にさらされてしまうので上手に気持ちをコントロールしていきたいなと思います。
僕の尊敬するお笑い芸人のハライチ岩井さんも「他人にどう思われても良いと思って生きる」と仰っていて本当にそうというか「本当にそれ"しか"ない」と思いました。なんでもシェアできる世の中には多少突っぱねる胆力も必要なのです。
まあ何を言いたいかというと「くだらねーもん見てる自覚があるなら全部にくだらねーと返せるだけの余裕を持て」みたいな感じです。
久しぶりのブログ更新でした。では。